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業界トップの座を失った武富士は再出発へ

創業者の逮捕・辞任から2年。営業自粛を余儀なくされた武富士は、長年死守してきた業界トップの座から、連結業績では業界4位に転落しました。新体制の下で再出発に懸命です。消費者金融大手の多くが大阪で誕生したのに比べて、武富士は首都・東京を営業エリアにして商圏を拡大していきました。同社が得意としていたのは「団地金融」といわれています。高度成長期の60年代後半から70年代前半、都市部で団地ブームが起こり、サラリーマン家庭はこぞって団地への入居を夢見ました。消費者金融は「サラ金」とも呼ばれるように、定期的な収入のある勤労者、すなわちサラリーマンが主要な顧客層です。武富士は団地に住む主婦を対象にチラシを配り、訪問営業をして顧客を開拓しました。「団地の中を1件ごとに回るのですが、最初はなかなか話を聞いてくれません。ようやくドアを開けてもらうと、そこに足を入れて閉められないようにします。営業トークをしている間に玄関の様子を伺うのです。靴やスリッパなどの履物がきちんと並べられていたら、『ここは貸しても大丈夫』と判断してチラシを渡して帰ります。家の中が整理整頓されている家庭は、借りたお金をきちんと返してくれる、というのが与信判断のひとつでした」(同社関係者)。武富士は、創業者・武井保雄氏の強烈なカリスマで急成長しましたが、こうした独特の融資判断は銀行に了承のできないユニークなものでした。

一九二九年の大不況以後

一九二九年の大不況以後、世界の各国は国際貿易と国際資本移動に対して厳しい制限を課すようになった。これは各国が輸入を制限して、総需要を自国内の産業に向けることによって、不況からの脱出を図ろうとしたからである。米国では、一九三〇年にスムートホーレー法に基づいて高率の関税が課せられたが、これによって諸外国は米国への輸出が困難になり、輸出産業は大打撃を受け、失業者の増大を招いた。そのため各国は報復的に貿易を制限したり、各国間でグループを形成して、そのグループ諸国内で特恵的な貿易協定を結ぶことによって米国に対抗しようとした。これによって、世界はいくつかのブロックに分断され、第二次世界大戦へと突入していくのである。このように、両大戦間の国際通貨制度は、国内均衡からみても、国際間の効率的な資源配分からみても、さんざんな出来であった。

新規のお客様に対して融資を行う場合

新規のお客様に対して融資を行う場合には、基本約定書である「銀行取引約定書」など、初回のみ頂く書類をまとめて署名捺印してもらいます。当初頂く書類には、?銀行取引約定書、?利息等の自動振替依頼書、?法人であれば社長の連帯保証書などが上げられます。どれも、これから取引を開始する上で欠かせない書類ですが、このなかで特に重要なのは言うまでもなく銀行取引約定書です。契約とは、本来ならば当事者間で内容を決め、取り交わすものですが、銀行では多数のお客様を相手にしていることから、それぞれ相談して決めるわけにはいきませんし、そんなことをすると債権保全上、支障を来すことになりかねません。そこで銀行では、全国銀行協会連合会で銀行取引約定書ひな形を採用し、内容を統一しています。このようにあらかじめ内容が定められているものを「附合契約」といいます。これらの約定は、取引先の倒産など債権保全上の危機に見舞われたときなどに極めて効力を発揮する内容になっています。この約定を締結するときには、お客様によく内容を説明し、合意を得てから調印して頂かなくてはなりません。